本堂
平成16年(2002)に建て替えられ、現在は数多くの文化財が展示されている。
本堂の下には、達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳がある。
平成16年(2002)に建て替えられ、現在は数多くの文化財が展示されている。
本堂の下には、達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳がある。
寛文7年(1667)に建立された方丈。屋根が左右非対称の造りになっている珍しい構造。
聖徳大師の飼い犬で、人の言葉を理解でき、お経を読むことができたとされる雪丸。
雪丸像は、もとは北東にある達磨寺1号墳のところにあったが、現在は本堂の南西の位置に祀っている。
王寺町のマスコットキャラクターの雪丸はこの像から誕生した。
横穴式石室をもつ径約15mの円墳。この古墳が遺言にもとづいて葬られた雪丸の墓であるとされている。
また聖徳太子が密かに法隆寺からと通られていた地下道があると伝わっており、古墳の石室がそれにあたると考えられている。
達磨寺古墳群3基のうちの1基で、1号古墳の南側約8mの地点にあり、現状の測量図から径約16m、高さ約2mの円墳であることが確認できる。
南側には横穴式石室の羨門の一部が見え、堆積している土砂の間から内部をうかがうことができる。
墳丘からは、江戸時代の銭貨である「寛永通宝」が2点出土しています。この古填は6世紀末ごろに築造されたと考えられる。
本堂の下にあり、現在は見ることができない。
本堂建て替えの際に、小さな石室をつくって石塔を納め、上に石で蓋をしているものが発見された。
石塔の中には合子という器が入っており、合子の中には水晶製の五輪塔が入っており、その五輪塔の中には仏舎利が入っていた。
本堂の西南にあり、達磨大師御杖竹ともいわれる。
伝説によると、達磨大師が携えていた竹杖を挿したところ、一夜にして芽が出てきたといい、毎月タケノコができるともいう。
蓬莱竹(ホウライチク)という種類の竹で、直径が2.5cm、節間が30cmくらいの竹が300本ほど群生している。
もとは熱帯・亜熱帯のインドシナ原産で九州・沖純地方では生垣として植えられており、一部では野生化しています。
本堂の北側にある高さ約180cmの八角形の石幢で、連勝寺の中興についての銘文を各面に陰刻したもの。
重要文化財。達磨寺の中興を成し遂げた南峯和尚が、南禅寺の惟肖和尚に頼んで永享7年(1435)9月に記してもらった達磨寺中興記を、南峯和尚が一文を添えて石幢としたのがこの中興記幢である。
そこには、旧仏教勢力による弾圧によって荒廃していた達磨寺を、南峯和尚が山名時熙と室町幕府の将軍足利義満、義持、義教の力添えをえながら中興を成し遂げていった経過が刻まれている。
本堂の西にある石塔で、現在は摩滅して読むことができないが、もとは「松永久秀墓天正五年十月十日」の文字が刻んであったという。
松永久秀は、天正5年(1577)10月10日に織田信長方の攻撃を受けて信貴山城で自害しており、筒井氏がその亡骸をこの地に葬ったといわれている。
片岡春利の墓も松永久秀の墓と同じ場所にあり、春利は筒井氏の麾下で順慶の妹婿にあたる。
石塔には「元亀元年三月五日卒」と刻まれているといわれる。
平成27年(2016)より達磨寺敷地内に一般の方用の墓地を新設。
歴史ロマン溢れる達磨寺境内を、安らかに眠れる安息の地として提供しています。
日露戦争以降、第二次世界大戦において国難に殉じられた王寺町縁故の方々のご冥福をお祈りするために建立された碑。
九重達磨塔は、灯籠や五輪塔の台石を九重に重ねて塔にしたものである。塔身には「法華塔」の銘文がある。
もとは本堂の西隣にあり、塔の地下には石室を造って一字一石経が大量に奉納されていた。
これを、永代供養塔とし、宗教不問、どなたでもお申込み頂けるようになった。
推古天皇21年(613)に聖徳太子と飢者に身をやつした達磨大師が出会い、歌を詠み交わした場所と伝えられる。
本堂西南角付近にあり、横に伏せているように見えるのが達磨石でそこから南に約10mのところにあるのが太子石とされる。
明治24年(1891)に再建された鐘楼堂。
眼を閉じて近寄り、両手で抱けば病気が全癒すると伝えられる石である。
寛政3年(1791)『大和名所図会』に見える当寺の境内絵図にも「やくし石」が描かれている。
正面の山門は南側にあるが、車で来られた場合は、駐車場すぐ横の西門から入るのが便利。
参拝者用の無料駐車場。普通車30台、大型バス3台。
土・日曜日には「王寺観光ボランティアガイドの会」による観光案内や雪丸グッズの販売あり。
本来の出入口となる南側の山門。
境内は特に制限はありません。いつでもお出でいただけます。
左の雪丸は、西門を入ってすぐ左の一夜竹の奥です。
右の雪丸は、ふだんは寺にいません。りーべるにいるかも。